1. ネガティブなレッテルに代わる新たな視点としての「敏感さ」
HSP/HSCの特徴は、「ひといちばい敏感」であることです。本来はそれ以上でも以下でもありません。
しかし、この「敏感」という言葉のイメージに引っ張られてか、色々な偏見や誤解も生まれやすいようです。
よくある誤解は、「気にしすぎ」とか「自意識過剰」などのネガティブなイメージがあれば、反対に「すごく配慮が行き届く優秀な人」とか「センスのいい人」などの過度にポジティブなイメージをもたれたりします。
「敏感」という言葉は、日常生活でも普通に使われる言葉だけに、誤解もされやすいのでしょう。
それは、研究の分野でも同じだったようです。
実は、「敏感な人」の研究は、50年ほど前からありましたが、「敏感」という言葉ではなく、「感覚的な刺激を受けやすい」「恥ずかしがりや屋」「内向的」「怖がり」「引っ込み思案」「消極的」「臆病」と表現されてきました。この本を書いた理由の一つは、敏感な子どもに対し、このような言葉を使ってほしくない、もっと正確で、敏感な気質を新しい角度からとらえるような名前が欲しいと思ったからです」
(エレイン・N・アーロン、「ひといちばい敏感な子」より)
これらの並んだ言葉をみてみると、ネガティブな印象・評価がされやすいことがわかります。
目が黒いとか青いのがいいとか悪いではないのと同じように、「敏感」であること自体はいいことでも悪いことでもないはずですが、それが「弱さ」や「悪いこと」のような評価をされてしまいがちです。
このように「一方的に、悪いことのように評価されてしまう」ことが「呪い」のように、その人の価値観を縛ってしまうことがあります。その呪いを解くために「HSP」の「ひといちばい敏感」という視点が役立つことがあるのです。
2.一方的な評価は、「暴力」にもなる
「ひといちばい敏感」なのは、正常な性質の一つですが、「敏感すぎる」というと、それは不適切な反応で、病的なものというイメージがついてきます。
上述のように、アーロンさんもHSP/HSCの特性、大多数と違うところはあるけれど、それをポジティブすぎず、ネガティブすぎず、できるだけ正確な言葉を使うべきだということに、ひといちばい心を砕いておられます。
このような子ども(HSC)の気質を何と呼べばいいかは、とても重要な問題です。名前(レッテル)によって、私たちはそれがどういうものかを知ろうとするからです。子どもたちが周りからどう見られ、自身のことをどうとらえるかにも影響してきます。
(エレイン・N・アーロン、「ひといちばい敏感な子」より)
もっとはっきり言えば、他者からの一方的なレッテル貼りが、人の自己肯定感を下げ、自信を失わせてしまう大きな要因となります。
それは場合によっては、トラウマ(心のキズ)となってしまうこともあります。
そのことを「一方的な評価(ジャッジメント)は、暴力である」とすら言われます。
なぜそこまで言われるのでしょうか。
ジャッジメントは本来「ある人の主観的体験」に過ぎないものだが、実際にはあたかも客観的事実のように宣言され、押し付けられるからである。(中略)そこで下されているジャッジメントは、実際にはある人の主観的体験に過ぎないものなので、ジャッジされる本人の現実との間には当然「ずれ」がある。ずれているだけでも不快なのに、その「ずれ」を、ジャッジされる側が一方的に引き受けなければならないところが、「ジャッジメント」の持つ暴力性だといえる。言葉は悪いが、一種の「言いがかり」なのである。
(水島広子、「トラウマの現実に向き合う ジャッジメントを手放すということ」より)
そう考えると、
- 「恥ずかしがりや屋」
- 「怖がり」
- 「引っ込み思案」
- 「消極的」
- 「臆病」
などと言われやすいHSP/HSCは、このようなジャッジメントを受けやすく、傷つけられてしまうことが多いのだと思います。
「敏感さ」自体が、主観的な体験としてしかわからないため、お互いに自分の感じ方が「普通」だと思っていますし、「相手も同じように感じているはず」と思い込んでいます。
しかし、その感じ方には小さくない違いがあるにもかかわらず、お互いに「ずれ」の正体がわからないために、一方的な評価がまかり通りやすいのです。
特に子どもは、自分が感じていることを言葉で表現する力も未熟であり、大人に言われたことをそのまま受け止めながら学習していきます。子どもとかかわる保護者や支援者が「HSC」を知ることは特に大切だと言えるでしょう。
3.HSPを学ぶ目的は、ありのままのその人を理解すること
大切なことは、どんなレッテルでその人を見るか(どうジャッジするか)ではなく、(一方的に)レッテルを貼っていたことに気づいて、その誤った評価を手放して、ありのままのその人(その子)と向き合うことです。
そういう意味で、HSP/HSCを知る本当の意義は、その人を「HSP/HSC」というレッテルを貼るみることではなく、レッテルを貼っていたことに気づき、それを「はずす」ことなのかもしれません。
一口に「HSP/HSC」といっても、実際にはいろいろな人がいて、違うところもたくさんあります。HSPについて学ぶことの本当の目的は、HSPかどうかとを超えて、ありのままの自分・相手と向き合えるようになることこそが、HSPを知り、学んだ先にあるゴールなのではないでしょうか。
「HSCなんて、また新たなレッテルをつけて、子どもを枠にはめるのか?」という意見もあるでしょう。もちろん、すべての子どもは一人ひとり違います。家でも学校でも、一人ひとりの個性に合わせた関わりが実現できたなら、きっとこんな名前は必要なくなるのだと思います。しかし現実は、まだまだこの社会は、人と同じことが求められ、違っているとわがままとか、親の育て方がおかしいとか言われかねない世の中です。
だとするならば、このHSCも、子どもに対するレッテル貼りではなく、一人一人の子どもを理解するためのヒントとして、ぜひ活用してもらえないかと思うのです」
(明橋大二、「HSCの子育てハッピーアドバイス」より)
4.まとめ
HSP/HSCの「ひといちばい敏感」という視点が、「自分の気にし過ぎじゃなかった、ひといちばい弱いわけじゃなかった」と、自分の劣等感や自責感を和らげてくれると感じる人が、一人でも多くいてくれたら。。。
アーロンさんはそのような願いを込めて、HSPという概念を世に送り出されたのだと思います。
どんなモノサシも使い方次第です。より適切に、自己肯定感が育まれるような接し方ができる見方の一つとして、HSP/HSCの理解が社会全体に広がっていってほしいと思います。
【参考文献】
- エレイン・N・アーロン、「ひといちばい敏感な子」
- 水島広子、「トラウマの現実に向き合う ジャッジメントを手放すということ」
- 明橋大二、「HSCの子育てハッピーアドバイス」